腰痛治療最前線―TMSジャパン公式サイト-図書室



TMS(緊張性筋炎症候群)理論

米国のカイロ最前線 連載11


TMS(緊張性筋炎症候群)理論


大川泰カイロプラクティックセンター
大川 泰 DC (ナショナルカイロプラクティック大学卒)


カイロプラクティックの最前線、アメリカ。彼の国では今何が起き、何が起きようとしているのか――。横溢する情報量の中からセグメントしたソースを浮き彫りにし、その動向を探る。


あなたは神を信じますか

坂道を上りながら考えた。根治を目指せば気持ちよくない、対症をやれば治らない。

To treat or not to treat.

トンネルを抜けると、そこは何でもありの気の巷(ちまた)であった。

背骨のズレも、動きの悪さも、探しちゃいけない直してもいけない。だってそんなものないんだもん。それじゃ私は何して飯食えばいいのだ。責任者を出せ、責任者! と騒いでみても、学術論文、研究発表、その実態は実にアナクロ、紙とインクの無機物。問うても答えてくれるじゃなし。

カイロプラクターはいったい何を治療しているのか。カイロプラクターに限らず、およそ"治療業務"という業務において、我々は何を対象として何の目的で何を行うのか。それともこういう質問の設定そのものが間違っているのか。

背骨のズレなどない、ハイさようなら。これはきわめて無責任かつ不親切。動きの悪さなんかもない、ハイまたさようなら。これも同じ。無いものを無い、と示してみせてやっただけ、でも人はついてきません。なら何があるの? とやっぱりみんな聞きたい。

結局、自分の形というのがあってよいのだ。左を差し、下手投げで右に振り、こらえる相手の力を利用して左に切りかえしてひっくり返す。舞の海関の必勝パターンである。しかし、必勝パターンという割には必ずしもこれでいつも勝てるわけではない。相手は誰でもこのパターンを知り尽くしているから、まず左を差させてもらえない。それができたとしても、切り返しを警戒して、下手投げをあまりこらえてくれない。が、それでもいいのだ。相手が左指し手を嫌うのであれば、不用意に出た左をとってやればよい。

相手次第、その日の状況次第で、毎日毎日まったく違った取り口で勝つお相撲さんというのはいるだろうか。これはいない。現実的な問題として無理、ということだろう。社会ではすべての人にそれぞれの個性に応じた居場所が用意されているように、治療家とても同じでしょう。今日はAK、明日はSOTというわけにはいかない。

何でもよろしいから何か自分の得意な形を見つけて、その後は抽斗(ひきだし)は多ければ多いほどよい。何かの折りには役立つかもしれない。これでしょう、最もまっとうな道は。

というわけで皆さん。最近私はいろいろな方から聞かれるのですよ。じゃ先生は何を信じるんですか、と。私は何も信じません。神も仏も尾崎豊も信じません。と同時に、神も仏も尾崎豊も好きで、それぞれそれなりに楽しく勉強しています。

意識と無意識

自分の形はあってもよい。それでも技はたくさん持っていた方がいい。というわけで今回も、ちょっと使えるかもしれない小技を一つ紹介しましょう。ニューヨークの医師、ジョン・E・サーノが唱えるTMS(Tension Myositis Syndrome)=緊張性筋炎症候群理論です。これはずばりいって、心が痛みを引き起こす、という説です。

人の心には、意識レベルと無意識レベルがある。我々が日々の生活の中で、これぞ私の意識でござい、と認識している部分は、表面上に姿を現している氷山の一角に例えられる。氷山のうち、目に見えるのは約1割。残り9割は海面下に潜んでいる。が、確かにそれはそこに存在し、海面上に見える部分の土台となっている。

脳内の、ごく限られた一部分(海面上に見える部分)で、我々は「これはこうですね、あれはああですね」などといわゆる理性的な判断を次から次へと行なっている。ではその下、海面下の部分は何なのか。ここには人間の凶暴な動物としての部分が隠されているわけです。こういうことは、やっちゃいけないな。ここまでならやってもいいかな。この間はボクがやったから、まあ今日はあいつにやらせてやるか。などというのが意識レベルの働きであれば、とにかく「オレやりたいーっ」というのが無意識レベルの叫びである。

つまり人の無意識レベルとは、人の「動物」あるいは「子供」の部分なわけです。社会的な遠慮以前の、やりたい、食いたい、攻撃したい、甘えたい、目立ちたいなどという、ありとあらゆる原始的な欲求がとぐろを巻いているのがここです。レベルの低い動物ほど、この原初的な衝動一本で生きています。

が、人はもちろんそんな衝動だけでは生きてはゆけない。自分の欲望と社会的な規範との間に妥協点を見出すという作業を不断に行わなくては、人の世では我々は居場所を見つけられない。そこで、発達した人の自我は常に、無意識レベルから上がってくる獣のような欲求に監視の目を光らせることになります。

人は誰しも周りからよく思われたい、好かれたい、社会的な成功も得たい。そのためには自分の中の獣が姿を現しかかったときには、それから目をそむけたい。その、自分の原初的な欲求から自らの目をそむけさせる心の仕組みが、心理学でいうところの「防衛機能」です。  

一番簡単な例が性欲で、これが湧き起こってくると、それと社会的規範との板挟みで人は苦しむことになるわけです。エッチはしたし、相手はなし。無理矢理やれば犯罪者になっちまう。悶々とするばかりでは、やはり苦しいし。そこでスポーツや勉強や芸術に打ち込む。性欲から目をそらせたいばかりにヤケに頑張って、結局その道でひとかどの成績を残してしまったりする。これが「昇華」です。

性欲などというものは汚いものです、人の道に反するものです、などと理詰めで自分を納得させる。場合によると、そういうような教義をもつ宗教かなんかに走ってみたりする。これが「合理化」。

男同士で「ウルトラ兄弟研究会」を結成し、「M78星雲の自転周期」あるいは「ゴモラと牛にみる胃の構造の相似」などについて、口角泡を飛ばして議論する。だけども、「ウルトラ兄弟の生殖機能」とか「アンヌ隊員の生い立ち」などというような、なまじ獣を呼び覚ましてしまうようなテーマは決して扱わない。これなどは「退行」ですな。

といったように、人はさまざまな心の防衛機能をもっていて、それに助けられて精神的、社会的な健康をかろうじて保っていられる存在である。というのが、かのフロイトによって打ち立てられた現代心理学の精神機能観です。

心が痛みを引き起こす

さて心の防衛機能とは、もともと頭の内部でのみ行われるものであった。が、人の脳は巧妙でずるがしこいやつである。我々がウッカリ見過ごしてきた、もう一つ別の防衛機能を「心」は実は備えていた。胃潰瘍や十二指腸潰瘍はその典型例の一つである、とサーノはいう。

胃に痛みが走れば、当人の注意はおそらくそちらへ向く。痛ければ痛いだけ、そうである。そして当人がその痛みにとりつかれていればいるだけ、その間だけは心の獣を忘れていることができる。実はそれこそが心の魂胆であったのだ。

つまり、いわゆる心因性の疾患というものは、心の重みに耐えかねて体が駄目になってしまった、というわけでなく、むしろ心の負担を軽くすべく脳が体にわざと作り出す、というわけだ。心因性の疾患は、心の防衛機能の一形態なのである。

胃潰瘍、十二指腸潰瘍以外にも、心因性とされてきた疾患は少なくない。過敏性大腸、喘息、耳なり、頭痛などであるが、これらの例にTMS(緊張性筋炎症候群)も含まれる。そしてその中でもTMSは最も純粋に心因性のものである、とされる。

脳は、好ましくない感情が意識レベルに上ってきそうになると、それを覆い隠すべく、自律神経の働きを使って一部の筋肉に血行障害を発生させる。具体的には、局部的な交感神経優位の状態が作り出される。これが痛みとなるのである。この痛みをめぐって、人はすったもんだを繰り返す。

痛みがあれば体のどこかが壊れていたり歪んでいたりしているはずだ、と大抵の人は言うから何となくそれを信じてしまう。結果、あっちこっちの名医を訪ね歩いて、曲げてもらったり引っ張ってもらったり、まあいろんなことをやってもらう。そういう風に物理的な治療を受ければ受けるだけ、これは物理的な原因(損傷、歪み)によるものだという本人の確信はとりあえず増すから、心の防衛機能としてのTMSはより効果的に機能することになる。

防衛機能とは、心のカムフラージュです。だから、よい防衛機能の要件は、それと気づかれないことである。その意味ではTMSは最高の防衛機能になりうる。腰痛が心因性のものである、などとは大抵の人は思わないからだ。その点、胃潰瘍などは素人でも心因性の要素が強いことは今日日(きょうび)では知っている。

過去30年ほどで、米国内での腰痛の発生件数が飛躍的に伸びるのにしたがって、胃潰瘍の件数は減ってきている。これは心の防衛機能の標的が胃などの「バレやすい」部分から、より「バレにくい」筋肉(TMS)に移ってきているからである。

TMSの治療

治療は、基本的には対話形式のカウンセリングによって行われる。投薬、手技、物療などは極力制限して用いられる。患者は何も自分の抑圧された感情を消し去る必要はなく(不可能である)、自分の無意識レベルのどの感情が痛みの原因になっているのかを気づきさえすればよい。これによって痛みは消失するが、一般には完全に痛みが消えるのは「気づき」後2~6週間を要する。これは意識レベルでの「気づき」が無意識レベルまで降りていって受け入れられるのにかかる時間である。

投薬、手技、物療などのカウンセリング以外のいかなる治療も、できれば皆やめてしまう、とまでサーノは言う。というのは、そういったいかなる治療も患者の深層心理に、痛みの原因は心理的なものではなく何らかの物理的なもの(手技、物療)もしくは化学的なもの(投薬)であるという確信を与えてしまう結果になるためであるという。

さて皆さん、どうでしょう、これ。使えそうですか? 僕は使えると思います。臨床経験をお持ちの方であればあるだけ、患者の心理的な問題は避けて通れないことを痛感しているはずです。

が、サーノのやり方をそのままやる、ということになると、治療家はほぼ完全なカウンセラーになってしまいます。おしゃべりするだけ。これもいかなるものか。限度をわきまえ、かつ患者に上のようなことをしっかり説明した上での、手技等の施術はやはり活かす方向を探るべきではないか、と私は思いますが―――。

季刊マニピュレーション, 1997, 12(4):92-5.

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